電脳世界での対話

“電脳世界での対話”、ここでいう“それ”は、投稿対話型SNS―メール、LINE、TwitterFacebook、ですが、これを使うときに、どうしても気が大きくなってしまい、ことばづかいも乱暴になってしまうことってありますよね。ぼくにも、そのことで人の信頼を失い、直接的なペナルティをかせられたという経験が実はあります。
会話や対話は、声としての発言にしろ、文章としての発言にしろ、相手が居て成立するもの。だからこそ「その発言に対して相手がどう思うのか」を最優先に考えるべきだとぼくは思います。それは、思想信条、政治的立場、価値観、世界観が違う人に対しても、です。立場の違いを超えてーー、ってよく聞くけれど、これができない人が多いなとここのところ思っています。さも自分が正義の味方なんだ! だから違う思想信条を持つ人はみんな“敵”なんだ! ってね。
でも、そもそも“敵”なのでしょうか。ただただ、思っていること、信じているもの・人が違うだけでしょう。違う人がいるってことを認めないと、会話や対話ができないと思うんです。なにか直接的に攻撃されたのなら、また別の話だけれども、ね。
だから何をいいたいかというと、SNSの世界は楽しいけれど、失敗することもあるってことです。その失敗をしないために、まずはこのことばを使ったら相手がどう思うのか、ということをこれからも考えていきたいという自分の決意表明でした。おしまい。

新しい常識

東京都はじめ都市部で、新型コロナウイルス感染症発症者数がここにきて上昇。年末にかけて「第三波がくるのではないか」などといわれはじめています。
東西南北、老若問わず「コロナ」一色の二〇二〇年。
「コロナ、コロナ、コロナ、これはきますね」「なにが」「コロナブームが」「ブームじゃないだろ」と、キャイーンがつかみで使うんじゃないかと勘ぐってしまいます。
この三文字が私たちの生活・働き方を一変させ、また、ふりまわされるようになって八カ月余。しかし、この新型のウイルスによって、新型の常識をつくり出した八カ月余ともいえます。
たとえばマスク。冬場や風邪対策だけでなく、いつ何時誰から感染するかわからないから「とりあえずマスクを常備する。室内や会話時には着ける」ことが様式として定着しました。
それにあわせて、人に会ったらマスクをとるという「おとなのマナー」も、人に会うのならマスクをするものというふうに、変わりました。
手洗い、うがい、洗顔。この一連の帰宅時ルーティンは、手指の消毒という動作もあわさり、その都度行うことが一般常識化されました。
ヒステリックで非科学的な対策や、よくわからないンペーンは不要ですが、こうした「新しい常識」は大歓迎です。

しゅういちトーク - One day Kobayashi tofu shop #005

約三カ月ぶりのしゅういちトーク

#005は、ボクシング世界戦井上尚弥対モロニーを、元日本王者の視点で語る五分十四秒。


https://youtu.be/0WRhLDDyrro

気合いを入れ直すある週の火曜日

毎週の入稿作業に追われる火曜日。
そして、昨日は普段の入稿作業とともに、昼間に国会議事堂前で開かれた「平和といのちと人権を!11・3大行動 憲法が生きるコロナ後の社会」と、それに呼応したうたごえの取材・原稿入稿も。
その取材のなかで、印象的だったこと。
内科医の伊藤真実さんが「総予算一兆七千億円のGoToキャンペーンに前のめりな政府の(医療・介護従事者への)薄っぺらな感謝やパフォーマンスはいらない。私たちの納めた税金を、医療、介護、福祉に返してほしい」とスピーチされていました。
集まった人たちはみんな「そうだ!」と思って拍手もしていたし、私もそう思いました。でも、同時に「#医療従事者にエールを」のハッシュタグムーブに乗っかった自分を恥じました。もちろん、「薄っぺら」な気持ちで乗っかったわけではありません。自分自身、先天性心疾患患者として、医療に携わる人たちへの畏敬の念は常に持っています。そして、友人たちの多くが、介護や医療に携わっているから、その仕事のしんどさも知っています。命や暮らしを支えたい! という熱い思いを持って従事していたけれども、そのしんどさから、身体や精神を病み離職する友人たちもいましたから。
でも、知っていたなら、ハッシュタグをつけてSNSに短文投稿なんてしないよな。感謝しているなら、具体的なアクションをしなきゃいけなかったんだな。とも思ったのでした。自分は何なのか。SNSやネットに投稿すれば満足なのかとも。だから、その取材原稿文中、わずか185文字に自分の反省と心からの連帯の思いを注入したつもりです。
そんな、とある火曜日の一日でした。

核兵器禁止条約ホンジュラスが批准

今朝の目覚ましアラームはとても平和なものでした。
核兵器禁止条約、ホンジュラスが批准。条約発効に必要な五十カ国達成。
ホンジュラス、そして、それより二年以上早く同条約を批准したエルサルバドル。この国名をみるとすぐに漫画「パイナップルARMY」(工藤かずや浦沢直樹)を思い出します。漫画は、民間軍事サービス戦闘インストラクターの日系人傭兵ジェド豪士(元米海兵隊グリーンベレー)が主人公。最終話は、核兵器を持った日本人テロリストとの対決の話でした。
この朗報をきき、核戦争、核テロは、漫画のなかだけのお話にとどめなければならないと、あらためて思いました。
核兵器禁止条約の批准国、署名国の多くは、かつて「アメリカの裏庭」として呼ばれ、日常に戦争の恐怖があった中南米の国や、かつて大国の占領下におかれていた小国です。もう、銃や兵器をもった血塗られた外交はいらないというかたい決意のあらわれのように感じます。
さあ、はやく日本もこの条約に参加を。私たちこそ核兵器はいらないと意思表示すべき。ことばではなく決然とした態度と行動でしめすべきです。

ソーシャルディスタンスって何だ?!

仕事柄、ことばには敏感であるべきと心がけている。新型コロナウイルス禍のなか、世間一般「ソーシャルディスタンス」とか、「ソーシャルディスタンスをまもる(たもつ)」ということばが使われ出し、五カ月ほどがたつ。なんだか違和感がある表現だと感じていた。なんとかこのもやもやから解き放たれたいと、早稲田大学英語サークル出身の実父にぶつけてみた。父は、建設会社で二十五年間中東アジアや南米での仕事を経験、脱サラ後は赤十字スタッフになり海外支援活動に五年間従事。ことばで渡り歩いてきたベテランはこの違和感をどう思うのか…。

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私 「ソーシャルディスタンスをまもる」ということば(表現)にかわることばをご教示いただきたい。「~をまもる」という表現で本当に良いかどうか。また「フィジカルディスタンス」ということばについても。
父 私がsocial distancingという言葉を初めて知ったのはトムハンクス夫妻がオーストラリアでがコロナに感染して、その後、帰国するときの記事です。practice social distancing という言い方で、意味は、ワクチンや治療法の無い感染症の拡大を防ぐために、distance(物理的距離)をとるという医学的用語です。一方、social distance という言葉は物理的距離ではなく人と人との心理的距離、親密さ、を意味します。ですから、正しくは、social distance(人間関係)は保ちつつ、social distancing(物理的には離れて)いましょう、ということ。たしか、誰か、俳優か政治家(英語圏の)がそういう言い方をしていたような記憶があります。
social=社会的となったのは明治維新時の翻訳で多分、福澤諭吉。あなたの違和感は正しい違和感ですが福澤先生を責めてはいけません。ここ数十年、外国映画の邦題をそのままカタカナですませてしまう(しかも間違った省略をしたり)ツケがここにも現れたわけです。ソーシャルディスタンシングは長いからソーシャルディスタンスにしてしまった、日本でしか通じない和製英語です。
私 では、「フィジカルディスタンス」については?
父 フィジカルディスタンスは和製英語ではありません。そのまま物理的距離の意で通じます。日本語であの人とはちょっと距離をおいて付き合った方が良い(要するにあまり親しくならないほうがいい)なんていいますが、英語のディスタンスもまったく同じように使います。
フィジカルは、物理的な肉体的な、ですよ。ディスタンスにそういう心理的距離の意味が含まれるということ。私は彼女とは付かず離れず、は、I keep my distance from her.カタカナ語はなるべく漢語かやまとことばにしたいものです。適当な日本語が見つからなければ「…(原語の仮訳)」とでもしておきましょう。正確というのが良い文章の基本なのではないでしょうか。
私 ありがとうございました。[了]