深夜バス

毎週月曜火曜は原稿締切と入稿作業があるから、毎回といっていいほど深夜バスを利用するのだけど、とにかく利用者が多い。飲み過ぎて終電をのがしてしまった人や仕事帰りの無自覚な社畜人、こども連れの夫婦だっている。
バス車中は基本みんな静かにしてるけど、たまに変な人もいたりして。
https://vine.co/ee697e67-e231-4398-bf9c-35a210154cb0
運転手「お客さん、危ないからやめてください」
男性「……」
運転手「お客さん、やめてください。落ちますよ」
男性「……」
運転手「懸垂してると落ちるから降りてください」
男性「ちょうどここでおりるんだった」と言って降車。

ほんとかよ!

無節操

本日、Facebookでこんなポスターを発見。

普段、無摂生なわたくしが言うことではないかもしれないけど、あまりにも無節操。
自衛隊協力映画」を批判することはあまりしない自分。エンタメとしてアリだし、「高い税金払ってるんだし、くさしてるわけじゃないんだから協力は惜しまずやれよ」って思うスタンスだから。でも、映画の側が自衛隊を協力しちゃったらダメじゃない? と思ってしまう。え? そういうつもりでつくってたの? って思われてもおかしくない。
まぁ、自衛隊側からすれば、「あんだけ資料とか人員とか提供したんだから、こっちのプロモでも写真くらいかせや」ってことなんでしょう。つまりバーター。節操ないな。

生きている限り伝えたい―中村雄子さんの場合

被爆者は核兵器廃絶を心から求めます−あなたとあなたの家族、すべての人びとを絶対に被爆者にしてはなりません」、今年4月、国内外9人の被爆者が呼びかけで「ヒロシマナガサキ被爆者が訴える核兵器廃絶国際署名」が発表された。5月7日、国民平和大行進青年交流会で、中村雄子さん(84歳、神奈川県原爆被災者の会会長)は若い参加者を前に、ひとことひとこと大切に噛みしめるようにして「あの日死んでいった友人たちのためにも、自分たちが生きているうちに核廃絶の道を拓きたい」と語りはじめた。
1932年3月22日生れの中村さんが被爆したのは13歳。「年頃の女の子」まっさかり、広島県立広島第一高等女学校2年生のときだった。
その日、8月6日は市中心部から2・8キロ離れた航空機工場にいた。中村さんはじめ2年生の生徒たちが学徒動員で駆り出されていた工場だ。
「6日は『電休日』で、先生や友だちと泳ぎに行く予定があったので工場で待機していたんです。しばらくして、誰かの『飛行機が来た』という声がしました。その後、『落下傘みたいなものが落とされた』という声がして、窓の方を向いた瞬間、ピカッと光り、爆風が吹き込み、私は沢山のガラスの破片が突き刺され、吹き飛ばされました」。
その後のことはあまり覚えていないが、とにかく体中血まみれのまま裏山の防空壕へ友だちとともに逃げ出した。井戸の水で血を拭い、ガラス破片をとった。一緒に逃げてきた友だちは怪我や火傷を負った者もいたが助かった。が、爆心地500〜600キロで建物疎開の作業にあたっていた1年生223人は全員亡くなった。あとでそのことを知った中村さんは絶望した。
「そのなかには私と一緒に電車通学していた友人の森脇瑶子ちゃんも。後に知ったことですが、瑶子ちゃんの服は熱線で焦げ、爆風で吹き飛ばされたので裸同然、下着のゴム紐しか残ってない状態で亡くなったと…」。
終戦を迎え、女学校も再興。「9月にプレスコードがしかれ、私たちも被爆のことなど話してはいけない雰囲気。米兵が歩いてくると友だち同士でシーッとやっていました。でも、戦争中とは違い、やっと平和な時代がやってきたという晴れ晴れしい気持ちもあったが、瑶子ちゃんはじめ223人の1年生のことがひかかっていました」。
女学校を卒業し、20歳で結婚。「夫は私の被爆のことについて心配してくれ、被爆者手帳が発給されたときも『とりなさい』と言ってくれた」。夫は転勤が多く、その地の被爆者の会には「覗きに行く」ことはあっても、自身が証言したり活動することはなかったという。
そんな中村さんの気持ちが「動いた」のは、偶然目にしたTV番組がきっかけだった。88年8月6日に放映されたNHK「夏服の少女たち」である。
県立女学校1年生223人が残した日記をもとに作られた同作品、「何気なくチャンネルをあわせたら、最初に画面に出てきたのが森脇瑶子ちゃんの写真だった。画面を観ながら、彼女たちが戦争中の必死な状況のなかでも楽しく生きていたこと。もっと生きたかったはずなのに一発の原爆で死ななければいけなかった彼女たち。生きている私が、生きているかぎり語っていかなければ」と、以来、在住の神奈川県原爆被災者の会で活動を続ける。
若い人たちが亡くなった話をするのはいつも辛い。でも、その話を若い人たちにすることが自分の役割です」。きょうも署名用紙と画板を持ち、声の限りに語りかけている中村さんの姿がある。

都立夜間定時制高校の存続を

都立夜間定時制高校の存続を求める署名はひきつづき八月末までとりくむことになっている。様々な境遇におかれた生徒を丸ごと受け止める教育こそ、日本の首都東京がやるべきこと。詳しくは以下の請願理由を読んでいただき、ネット署名にご協力ください!

今年二月、東京都教育委員会は小山台、雪谷、江北、立川の四校の夜間定時制を閉課程(廃止)にすることを決定しました。四校の夜間定時制は、昼間働いている生徒や全日制に合格できなかった生徒、高校を中退した生徒、夜間中学の卒業生、若い時に学ぶ機会を逸した年配の社会人、外国につながる生徒など、多様な生徒の学びの場となっています。教育委員会には夜間定時制の存続を求める請願が二万筆以上の個人署名や団体署名など多く出されましたが、都民の声に応える議論が十分になされませんでした。また、廃止する理由についても問題点が多く指摘されています。交通至便の夜間定時制を廃止して、遠くにある学校に通えというのは、余りにも理不尽です。自宅や勤務先の近くにある学校でなければ通いきれません。教育委員会での廃止決定後も、生徒や卒業生、保護者、同窓会、地域の人びとから、存続を求める声が広がっています。格差と貧困が広がるなかで、夜間定時制セーフティーネットの役割を果たしています。4校の夜間定時制はそれぞれ特色をもち、地域に支えられ、少人数できめ細かい教育をおこなっています。夜間定時制高校は、今まで以上に必要になっています。

全国青年のうたごえ祭典 in TOKYO

全国青年のうたごえ祭典 in TOKYOが七月一六〜一八日、都内で開かれ、のべ二百人が参加。「とどろけHEIWAのうたごえ」をテーマに、音楽会(一七日)、分科会・合唱練習(一六、一八日)がおこなわれた。
二〇〇六年、「フォルテ〜大きくうたえ」東京開催を皮切りに、十年間、途中交流会などの開催形式をかえながらも十年間続けてきた。今回の開催は十年ぶりの東京。約一年かけて実行委員会を募り準備。所属する合唱団も、年齢も違うなかで活動を進めた。実行委員長のKさんは一年前に合唱団に入団。今回、実行委員長として活動することには不安もあったが、充実も。「自分にとっても初めての経験。うたごえの魅力が少しだけわかった気がする」。こうした若者を全国で広がってほしいとおもう。