生きている限り伝えたい―中村雄子さんの場合

被爆者は核兵器廃絶を心から求めます−あなたとあなたの家族、すべての人びとを絶対に被爆者にしてはなりません」、今年4月、国内外9人の被爆者が呼びかけで「ヒロシマナガサキ被爆者が訴える核兵器廃絶国際署名」が発表された。5月7日、国民平和大行進青年交流会で、中村雄子さん(84歳、神奈川県原爆被災者の会会長)は若い参加者を前に、ひとことひとこと大切に噛みしめるようにして「あの日死んでいった友人たちのためにも、自分たちが生きているうちに核廃絶の道を拓きたい」と語りはじめた。
1932年3月22日生れの中村さんが被爆したのは13歳。「年頃の女の子」まっさかり、広島県立広島第一高等女学校2年生のときだった。
その日、8月6日は市中心部から2・8キロ離れた航空機工場にいた。中村さんはじめ2年生の生徒たちが学徒動員で駆り出されていた工場だ。
「6日は『電休日』で、先生や友だちと泳ぎに行く予定があったので工場で待機していたんです。しばらくして、誰かの『飛行機が来た』という声がしました。その後、『落下傘みたいなものが落とされた』という声がして、窓の方を向いた瞬間、ピカッと光り、爆風が吹き込み、私は沢山のガラスの破片が突き刺され、吹き飛ばされました」。
その後のことはあまり覚えていないが、とにかく体中血まみれのまま裏山の防空壕へ友だちとともに逃げ出した。井戸の水で血を拭い、ガラス破片をとった。一緒に逃げてきた友だちは怪我や火傷を負った者もいたが助かった。が、爆心地500〜600キロで建物疎開の作業にあたっていた1年生223人は全員亡くなった。あとでそのことを知った中村さんは絶望した。
「そのなかには私と一緒に電車通学していた友人の森脇瑶子ちゃんも。後に知ったことですが、瑶子ちゃんの服は熱線で焦げ、爆風で吹き飛ばされたので裸同然、下着のゴム紐しか残ってない状態で亡くなったと…」。
終戦を迎え、女学校も再興。「9月にプレスコードがしかれ、私たちも被爆のことなど話してはいけない雰囲気。米兵が歩いてくると友だち同士でシーッとやっていました。でも、戦争中とは違い、やっと平和な時代がやってきたという晴れ晴れしい気持ちもあったが、瑶子ちゃんはじめ223人の1年生のことがひかかっていました」。
女学校を卒業し、20歳で結婚。「夫は私の被爆のことについて心配してくれ、被爆者手帳が発給されたときも『とりなさい』と言ってくれた」。夫は転勤が多く、その地の被爆者の会には「覗きに行く」ことはあっても、自身が証言したり活動することはなかったという。
そんな中村さんの気持ちが「動いた」のは、偶然目にしたTV番組がきっかけだった。88年8月6日に放映されたNHK「夏服の少女たち」である。
県立女学校1年生223人が残した日記をもとに作られた同作品、「何気なくチャンネルをあわせたら、最初に画面に出てきたのが森脇瑶子ちゃんの写真だった。画面を観ながら、彼女たちが戦争中の必死な状況のなかでも楽しく生きていたこと。もっと生きたかったはずなのに一発の原爆で死ななければいけなかった彼女たち。生きている私が、生きているかぎり語っていかなければ」と、以来、在住の神奈川県原爆被災者の会で活動を続ける。
若い人たちが亡くなった話をするのはいつも辛い。でも、その話を若い人たちにすることが自分の役割です」。きょうも署名用紙と画板を持ち、声の限りに語りかけている中村さんの姿がある。